ダウンロード違法化について思うこと (3):言論の自由との関係

本題に入る前に。2ch からの津田さんスレッドの抜粋を見て、もしかしてうまく丸め込まれてないかと心配になった。
ダウンロード違法化がほぼ決まったけど何か質問ある?【働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww】

>36
DLの場合、そもそも警察にばれるということが考えにくい。刑事罰はないので現状はDLだけなら逮捕はされない。ただし、民事の損害賠償の対象にはなるので、逮捕はされないけどブログとかで「違法着うたダウンロードしまくりwww」とか書いてて、かつそれが証明されたら、民事訴訟される可能性はゼロじゃないけど、日本の司法制度とか権利者が米国ほど強硬手段には出ないということを考えると、限りなくリスクは低いだろうとは思う。

刑事訴訟法と刑事訴訟規則をざっと見てみたけど、刑事罰がないなら逮捕されないとは書いてないようだった。それに思想の自由との関連からは、逮捕だけでなく捜索と押収が問題になるので、もし逮捕されないことになっていても、問題はやっぱり大きい。

それと、日本が米国化しているのは、まさにこの著作権強化の一件を見ても明らかなので、これからもリスクが低いと考えるのは甘いんじゃないかな、と思う。まあ民事訴訟ならお金だけの話なので、私はあまり問題にしない。問題にしてるのは、公権力の介入のほう。

でも津田さん頑張ってくれてありがとう。感謝です。

さて本題の、言論の自由との関係。

言論の自由が保障されなければいけない大きな理由のひとつは、何か批判されるべき事柄があったときに、それを批判できるようにすること。権力者に対してこれができないと民主主義は機能しないし、普通の人に対してもこれをお互いにすることでよりよい生き方を追求するわけだ。もちろん、お互いの権利を侵さない範囲で。

ここで、動画のダウンロードが違法化された状況を考えてみる。

私が仮に、自分の利益のために、完全に事実を誤認したプロパガンダ番組を作って、ネットでストリーミング配信したとする。それを大勢の人が見て信じたけど、一部の人が誤りに気づいた。でも、ダウンロードが違法ならば、誤りに気づいた人はその番組を批判することができないよね。私はもちろんそんなことされたくないから、元データは絶対に出さない。誤った知識だけが世の中に広く残る。「私」をマスコミに置き換えてみると問題の大きさがわかると思う。

同じ状況で、政府が自分に都合がいいプロパガンダ番組を民間の放送会社に作らせて、ストリーミング配信させたとする。著作権は放送会社にあるとする。やっぱり批判したい人は批判できない。政府が放送会社よりも強い立場にあれば、親告罪だとしても、放送会社に告発させることができる。

言論の自由が、批判を通じて、正しく役に立つ情報を皆が手に入れ、よりよい政府を選び、自分たちも幸福を追求する、ということをめざしているのに、ダウンロードを違法化すると、そこに著作権という壁が立ちはだかってしまう。

まだある。もし、ある放送会社がストリーミング配信で、自分の名誉を毀損する映像を流したとする。名誉毀損は刑法に触れるから、私は告発したい。でも、ダウンロードは違法だし、もしそれでもダウンロードして裁判所に持って行っても、違法に入手したものに証拠能力は認められないから、証拠にならない。それまでに放送会社が元データを消してしまったら……どうやって名誉毀損を証明すればいいんだろう。(まあ名誉毀損自由権とは直接関係ないけれど)

私は、憲法にうたわれている思想の自由、言論の自由表現の自由は、次のことを暗に前提としていると思う:人は自分が触れた情報を取得し保持する権利がある。人間の頭には限りがあるし、批判をする場合には対象を挙げなければいけないので、対象物を何らかの形でとっておかなければ実際には批判などできない。批判が正確にできないし、言った言わないの水掛け論になったりしそうだし。

では違法にアップロードされたものをダウンロードする権利があるのか、という問いが来そうだけど、それはやっぱりあると思う。比較でいうと、違法な方法で取材された記事が新聞に載ったときに、その記事を切り取って自分のスクラップブックに貼る権利はあるか。あるよね。あると思う理由はまず、元が違法かを確かめる義務を情報の受け手に課すのはやりすぎだということ。でももっと大事な理由は、言論の自由ってのはそれほどまでに大事な基本的人権なんだってこと。著作権という、人権よりも弱い権利、しかもその利益のための行使によって、言論の自由が制限されてはいけないと思うのだ。

そう考えると、著作権法で「私的複製」が認められていることに、積極的な理由を与えることができる。多分普通は、私的複製ぐらいなら著作権者の利益をそれほど損なわないからいいか、ぐらいの意味に取られるだろうし、立法時にもそう考えたんだろうと思う。でも、上の見方をすれば、つまり触れた情報の取得と保持の権利が基本的人権に含まれると考えるなら、この私的複製の条項は基本的人権を侵害しないためと考えることができる。

やっぱりダウンロード違法化は、著作権を拡大することで基本的人権を制限することに見えて仕方がない。お金の問題を刑罰法規で解決しようとするからこういうおかしなことになるんじゃないのかな。

ダウンロード違法化について思うこと (2):基本的人権と著作権はどっちが大事か

もうひとつ、ダウンロード違法化について思うのは、実際に違法ダウンロードを取り締まることが、思想の自由を危険にさらさないか、ということ。これも児童ポルノ単純所持処罰と同様の話なんだけど。*1

今の案では、どうやら罰則なしということになっているらしい。でも、一度「違法である」という枠組みができてしまえば、罰則を追加することに障害はないと言っていい。これは立法の常套手段だ。

じゃあ実際に取り締まるときにはどうなるか。違法ダウンロードの証拠でもっとも有効なのは、ダウンロードされた著作物データだろう。でも著作物データだけを押収することはできないから、PCあるいはディスクを丸ごと押収することになるはずだ。そこにはきっと、個人に関する膨大な情報が詰まっている。プライバシーも、思想の傾向も、警察にすべてわかってしまう。しかも、容疑がかかるだけでそれが可能になる。つまり、どこかのアクセスログに自分のたったワンクリックのアクセスが(あるいは、自分の無線LANに侵入して自分をかたった誰かのアクセスが)記録として残っているだけで、突然自分のPCが押収される恐れがあるということだ。

これは、思想の自由をうたう国として、通信の秘密を保障している国として、検閲を禁止している国として、まともな状態なのだろうか。

そして、それによって守られるものは何だろう。それは著作権という権利なんだけれど、具体的には小委員会で権利者側の委員が言うように、

この問題について権利者側の委員は、「ネット上の違法流通の被害は深刻」と主張。

文化庁、“iPod課金”結論を先送りへ~依然として合意得られず
「ネット上の違法流通の被害」、つまり「得られたはずの利益」なわけだ。

刑罰ってのは、誰かを危害から守るためだけに科すべき。これは刑法の基本的な原則だ。誰かに利益を与えるための刑罰などというのは聞いたことがない。どんな債権債務関係だって、すべて民事の範囲のはずだ。もし利益を得たいなら、そのための私人としての努力をその人がすべきだろう。CDだって、ネットだって、そうやってみんな努力してきた。CDの利益を増すためにレコードを規制したり、ネットを発展させるために電話を規制したりはしてこなかった。

なのに、どうして著作権に関してだけ、誰かに利益を与えるために、国民すべてを縛るような刑罰を設けることができるのだろう。利益を得たいなら、CDから音楽を抜いてネットに乗せられないような、高品質のCDフォーマットと、その再生のための機器を、自分で開発すればいいじゃないか。それがよいと思えばみんな買うだろう。それが自由市場というものだ。

別に違法アップロードを容認しているわけではない。技術的に無防備な、過去に発売されたCDに関する権利は守られるべきだと思う。が、それは権利を拡張(ダウンロード違法化)して一般人に刑罰を科すことによってでなく、アップロード側を取り締まることで行なわれるべきだし、この状況で、無防備なCDを出し続けるのは、既得権にあぐらをかいているのではないか、ということ。

しかも、著作権による利益を著作権者という限られた人々に与えることによって危うくなるのは、広く一般ネットユーザの、しかも基本的人権である思想の自由だ。著作権基本的人権よりも重要なのだろうか。

ここには、著作権が刑罰法規で守られているという問題もからむんだけど、それはまた今度。

ダウンロード違法化について思うこと (1):情報技術発展の足枷

こんなニュースがあった。

ついにP2Pソフトなどを使ったファイルのダウンロードの違法化決定 - GIGAZINE

詳細な内容は分からないけれど、ずっと議論されていたことからまあ推測はできる。要は、違法にデータとして公開された著作物があるとして、それをダウンロードすることも犯罪にしよう、ってことだろう。

これについて思うところがいくつかあるので、まとまらないかもしれないけど、少しずつ書いてみる。

ひとつめ。これは日本の情報技術の発展を阻害する、大きな足枷になるんじゃないか。(児童ポルノの単純所持処罰の問題と同じ。*1

「ネットからPCにデータをダウンロードする行為を違法行為とする」という考え方には、暗黙の前提がある。それは、その行為を人間が行なうってこと。なぜなら、対象データが違法にアップロードされた著作物であるかどうかは人間しか判断できない。いや、人間でも判断できない場合があるだろう。「情を知って」との条件がつくという話もあるが、それもやっぱり人間がダウンロードすることを仮定している。

でも、データをダウンロードするのは人間だけだろうか。というか、この先ずっと、人間が手でぷちぷちとクリックしてネットからデータを集めるなんて原始的な時代が続くと、みんな思ってるんだろうか。

そんなことあるはずがない。データ収集が自動化され、それがPCの中で知的に再構成され、自分に必要な情報を効率よく提示してくれる、なんて、技術的にはすでに視野内だ。

そこでダウンロードの違法化なんてしたら、犯罪の危険を犯してデータの自動収集をするか、自動収集を全くあきらめて法を守るか、どっちかしかない。多くの人は後者を選ぶだろうし、危険な研究開発なんて誰もしないだろう。

そしたら、日本はこういう法制のない国の技術発展の後塵を拝することにならないだろうか。

無知は許されない

社会がもし、無知な個人を守るなら、規制するしかなく、その社会では自由な活動による幸福追求の実験ができないから、社会の進歩は阻まれる。

逆に言えば、自由の恩恵を受けるためには、個人は無知であってはならない。

こんにゃくゼリー規制賛成派の人には考えてもらいたい

こんにゃくゼリーを規制、つまり製造を禁止すべきだという意見に対して、では餅はどうなのだと反論されたときに、規制賛成派の人から出る再反論として「餅は歴史が長い」や「こんにゃくゼリーの危険性は一般に知られていない」などを見受けます。

でもその理屈からは、今後そのような食べ物を新しく作ることが一切できないということになりませんか。新しい食べ物は歴史もないし一般に知られているはずもありません。

餅がまだ発明されていなかった時代に、誰かが餅を作り、それは危険だからと政府が製造を禁止したらどうなっていたでしょう。飴はどうでしょう。ふぐをとって食べることは。魚の骨はいいのか。

食べ物だけではありません。新しくて、場合によっては有用だけど、使い方によっては危険なものは、まったく同じ理屈で禁止すべきだということになりませんか。道具にせよ、乗り物にせよ…それがどんなに私達に幸せをもたらしてくれるとしても。包丁、縫い針、はさみ、飛行機、自動車、これらが危険だからと製造が禁止されていたら、どうなっていたでしょうか。

新しいものが人間社会にうまく定着するのには時間がかかるものだと思いませんか。それを禁止という形で次々と潰してしまっては、多くのよいものを失ってしまうと思いませんか。餅と同程度ぐらいにしか危険でないこんにゃくゼリーが、日本の食文化のひとつとして定着しないとも限らないでしょう。

やるべきは規制でなく、広く皆が知ることでは。そのための言論の自由であり、表現の自由なのだから。

社民党および福島みずほ氏と全体主義

社民党党首福島みずほ氏が以下の申し入れをしたと社民党の公式ウェブサイトにあった。

http://www5.sdp.or.jp/comment/2008/moushiire081001.htm

2008年10月1日
こんにゃくゼリーによる窒息死事故に関する緊急申し入れ

消費者行政担当大臣
野田聖子

社会民主党党首
                          福島みずほ

 国民生活センターは9月30日、兵庫県の1歳9カ月の男児こんにゃくゼリーをのどに詰まらせて死亡したと発表しました。95年以降、確認されているだけで17名もの貴重ないのちがこんにゃくゼリーによる窒息死事故により奪われてしまいました。

 これまで、こんにゃくゼリーによる窒息死事故が生じるたびに、被害者や消費者団体は、政府や企業に対して申し入れを行い、警鐘を鳴らしてきました。しかし、その都度、厚生労働省は「食品衛生法の対象外」、経産省は「消費生活用製品安全法の対象外」、日本農林規格(JAS)法所管の農林水産省は「表示の問題ではない」などと、いずれの省庁も現行の法体制では規制できないとして、警告表示などの製造・販売業者の自主的な取り組みに任されるなど、「すき間事案」のまま抜本的対策がとられることなく、今日に至っております。

 このまま行政の「すき間」を放置して貴重ないのちが失われるのを見過ごすことは許されません。

 社民党は、今後ともかかる行政の不作為による責任を厳しく追及するとともに、こんにゃくゼリーによる窒息死事故の再発防止に向けて下記の緊急対策を執られるよう、申し入れをいたします。

1.こんにゃくゼリーの製造・輸入・販売の即時禁止すること

2.学童保育所、幼稚園、保育園などの児童福祉施設、高齢者施設などで、子どもや高齢者などに提供しないことの周知徹底すること

3.製造・販売業者に対する自主回収の指導すること

4.消費者の視点に立った実効性のある消費庁の設置すること

以上

これにより社民党福島みずほ氏は全体主義を主張している。それは憲法前文の理念と反する。

こんにゃくゼリーの包装にはどう食べるべきかが明記されている。また、マスコミその他を通じて、こんにゃくゼリーをどう食べると危険かは広く知られている。これにより、こんにゃくゼリーを危険と思う人は避けるだろうし、よいものだと思う人は食べ方に気をつけて食べるだろう。また、こんにゃくゼリーを提供する企業は、それを求める人に幸せを与えることになる。

自由という考え方の目的には、人々が情報を交換して、一人一人がより幸せに生きるということが含まれている。そのための思想の自由であり、言論の自由である。よってここまでは、正しく自由の恩恵である。

しかし社民党福島みずほ氏は、上記1項(及び事実上3項)で、公権力の介入を要求した。これはすなわち、憲法前文にある「自由のもたらす恵沢」を公権力によって潰すことを是とするものである。したがって社民党および福島みずほ氏は基本的人権である個人の自由権を全体の都合で奪う全体主義を主張していることになる。

自由な社会では、個人が何も知らずにいることは許されない。何も知らずにいる者すら守ろうとするなら、それは必然的にその他の者の自由を奪い、全体主義社会となる。

まあ、全体主義だと本人(たち)は気づいていなくて、弱者を守るよいことをしていると思っているんだろう。社民党の理念には憲法前文とか自由と書いてあって、今回の申し入れがそれと矛盾していると思うのだが。もしかして何を民事で処理し、何を刑事とすべきかさえはっきりさせていないのではないか。一応関係者がこれを見てくれたときのために:第1、3項は削らないと貴党の理念に反しますよ。2項は是非やるべき。4項は大きな政府への道なので私は反対だけど、社会民主主義とやらではうれしいのかも。それはわからない。

しかし、これを野党の党首、しかも政権から遠い党の党首がやるってのがちょっと情けない。どう見たって現政権の権力を強化して、庶民の手を縛る申し入れなんだけど……私は全体主義政党に入れる票は持ち合わせていないなぁ。

言い回しがちょっときつかったので修正。