ダウンロード違法化について思うこと (2):基本的人権と著作権はどっちが大事か

もうひとつ、ダウンロード違法化について思うのは、実際に違法ダウンロードを取り締まることが、思想の自由を危険にさらさないか、ということ。これも児童ポルノ単純所持処罰と同様の話なんだけど。*1

今の案では、どうやら罰則なしということになっているらしい。でも、一度「違法である」という枠組みができてしまえば、罰則を追加することに障害はないと言っていい。これは立法の常套手段だ。

じゃあ実際に取り締まるときにはどうなるか。違法ダウンロードの証拠でもっとも有効なのは、ダウンロードされた著作物データだろう。でも著作物データだけを押収することはできないから、PCあるいはディスクを丸ごと押収することになるはずだ。そこにはきっと、個人に関する膨大な情報が詰まっている。プライバシーも、思想の傾向も、警察にすべてわかってしまう。しかも、容疑がかかるだけでそれが可能になる。つまり、どこかのアクセスログに自分のたったワンクリックのアクセスが(あるいは、自分の無線LANに侵入して自分をかたった誰かのアクセスが)記録として残っているだけで、突然自分のPCが押収される恐れがあるということだ。

これは、思想の自由をうたう国として、通信の秘密を保障している国として、検閲を禁止している国として、まともな状態なのだろうか。

そして、それによって守られるものは何だろう。それは著作権という権利なんだけれど、具体的には小委員会で権利者側の委員が言うように、

この問題について権利者側の委員は、「ネット上の違法流通の被害は深刻」と主張。

文化庁、“iPod課金”結論を先送りへ~依然として合意得られず
「ネット上の違法流通の被害」、つまり「得られたはずの利益」なわけだ。

刑罰ってのは、誰かを危害から守るためだけに科すべき。これは刑法の基本的な原則だ。誰かに利益を与えるための刑罰などというのは聞いたことがない。どんな債権債務関係だって、すべて民事の範囲のはずだ。もし利益を得たいなら、そのための私人としての努力をその人がすべきだろう。CDだって、ネットだって、そうやってみんな努力してきた。CDの利益を増すためにレコードを規制したり、ネットを発展させるために電話を規制したりはしてこなかった。

なのに、どうして著作権に関してだけ、誰かに利益を与えるために、国民すべてを縛るような刑罰を設けることができるのだろう。利益を得たいなら、CDから音楽を抜いてネットに乗せられないような、高品質のCDフォーマットと、その再生のための機器を、自分で開発すればいいじゃないか。それがよいと思えばみんな買うだろう。それが自由市場というものだ。

別に違法アップロードを容認しているわけではない。技術的に無防備な、過去に発売されたCDに関する権利は守られるべきだと思う。が、それは権利を拡張(ダウンロード違法化)して一般人に刑罰を科すことによってでなく、アップロード側を取り締まることで行なわれるべきだし、この状況で、無防備なCDを出し続けるのは、既得権にあぐらをかいているのではないか、ということ。

しかも、著作権による利益を著作権者という限られた人々に与えることによって危うくなるのは、広く一般ネットユーザの、しかも基本的人権である思想の自由だ。著作権基本的人権よりも重要なのだろうか。

ここには、著作権が刑罰法規で守られているという問題もからむんだけど、それはまた今度。