ダウンロード違法化について思うこと (4):私達は何のために警察にお金を払ってるのだろう

憲法に一応「自由」をうたっているこの国で、私達が税金を納めて警察を養っているのは、私達が安全に安心に暮らすためだと思う。街で普通にものを買っても毒物ではないとか、道を普通に歩いていても危険がないとか、そういうために警察がいると思っていいはずだ。間違っても、私達を権力者が支配するのに便利なためではない。だってそれは民主主義ではないもの。民主主義なら、警察は国民のしもべのはず。

ネットでどこかをクリックして何かを見たり聞いたりする。そのときにデータは、ストリーミングで送られてくるかも知れないし、ダウンロードされるかも知れない。それは普通の人は気にしない。そして、そのネット上のデータがどういういきさつでそこにあるのか、それも普通の人は気にしない。というか、知らないことのほうが多い。これが、ネット上の普通の行為だ。

ダウンロードを違法化するということは、その普通の行為を犯罪にすること。今回の違法化には、いろいろとややこしい条件がついている。曰く、「情を知って」いる場合だけ犯罪だとか、犯罪だけれど刑罰はとりあえずないとか、ストリーミングは大丈夫だとか。でも、主観的要素(その行為をする人の心のうち)を除けば、「ネット上での普通の行為を犯罪にする」ことには変わりがない。

たとえて言うなら、こうだ。街には私道があるよね。いま仮に、私道で屋台を(その私道の所有者以外が)出すことが違法だとする。でも屋台のラーメンを食べたい人は、もちろんそこにいって食べる。その現状を何とかするために、私道に入ることを違法化したらどうだろう。ただし、私道には「ここは私道です」とは必ずしも書いていないとする。(実際、そういう私道は街にいっぱいある。)

客のほうは、その屋台が違法かどうか、その道が私道かどうか、すぐにはわからない。私道に足を踏み入れた瞬間に犯罪だし、屋台で食べた証拠が残ればもちろん犯罪だ。そこで警察は、私道を見張ったり、見張らなかったりする。だから個人個人は、その屋台が違法かどうか、いま足を踏み入れようとするところが私道かどうか、常に気にしなければならない。私道かどうか知らずに入ったなら犯罪でない、と言われたって、実際に入ってしまったら、「知らなかった」ことを証明するのはこっちの責任になる。そういう、どこかを歩くだけで犯罪になるリスクを常に意識しつつ、街を歩くことになるだろう。

でも、これってまともな状態だろうか。警察は、私道を進入禁止にする前に、屋台をきちんと取り締まるべきじゃないのか。道で屋台を見かける、それがうまそうならそこへ行って食べる。これは普通の行為だ。それを犯罪にして、個人個人を犯罪の恐怖に常におき、またその行為が違法かどうか判断する責任を個人に課す。

これは、自由な国における、あるいは民主主義国における、警察のやることだろうか。

現在のネット技術では、サーバからのダウンロードだろうが、P2Pだろうが、データを取得するときには必ずその相手がいて、送信側アドレスが特定できる。もしも権利者が言うように、ネット上での被害が甚大であるならば、不特定多数がそういう違法にアップロードされた(送信可能化された)著作物にアクセスできる状況にあるはずだ。警察がそれを発見できないなら、それは警察の怠慢ではないのか。

ネットがすでに国に認知されている以上、警察には、街を歩くように、ネットを安心して使えるようにする義務がある。そのために私達は税金を納めてるのだ。決して、私達を犯罪者にするために警察を養っているのではない。もしネット上の安心と安全のために、警察の人手が、あるいはお金が、足りないのなら、その分は私はよろこんで出そう。でも、それが足りないと訴えず、権利者の欲につけ込んで、単に納税者を犯罪者にすることで楽をしようとしているなら、それは許されないと思う。