個人による情報発信モードの連続スペクトル

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b7be8a4ce13c691aa0918dd66e436497
このエントリの内容を私なりにまとめるとこうなる。

  • 個が自立していない「古い日本人」は世間を恐れて匿名性を好む。そのような集団から成る社会はインターネットに適応できない。これが日本がウェブに立ち後れている原因だろう。

そして、同エントリからリンクのあるこの↓コラムでは、
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/pcjapan29.html

こうした匿名の書き込みによる悪影響は日本のインターネット全体に広がり,百科事典サイトのウィキペディアの日本語版も中傷の温床になっている。ブログも,アメリカでは8割が実名(あるいは実名が同定可能)であるのに対して,日本では9割が匿名だ。

となっている。

以上からは、ネットでの情報発信は実名ですべき、との結論が導かれそうだ。が、ほんとにそうなのか。

歴史から言うと、上のコラムの記述はおそらく事実誤認だと思われる。2ちゃんねるができる(Wikipedia*1 によれば1999年)以前から、日本のインターネットには、ウェブ日記を書き(当時は「ブログ」という言葉はなかった)、お互いにリンクしあうというコミュニティが存在した。そしてその日記のほとんどは実名で書かれていなかった。私がそれを始めたのは1998年、すでにいくつかのコミュニティが確立しており、私は新参者だった。2ちゃんねる以前にもアンダーグラウンドの匿名掲示板はあったようだが、少なくとも我々のコミュニティからはその存在は見えず、日記を実名で書くか匿名で書くかの決定に影響を及ぼすものではなかった。

もう少し歴史を遡る。インターネット掲示板やブログよりも前に、個人が情報発信できる仕組みがいくつかあった。

ひとつはネットニュースである。日本では JUNET(後に fj となった)と呼ばれた。技術的には UNIX システム間で記事を交換しあう仕組みだが、利用者からは掲示板システムに見えるものだ。このシステムを日本で運用する際に、電気通信事業者(当時は第二種という分類がなかった)でないものが不特定多数の人が出した情報を配送して大丈夫かという不安があったので、それなら特定多数にすればいいだろうと言う無茶な理屈で、JUNET への投稿は投稿者の電子メールアドレスを必ずつけることになっていた。

当時、JUNET に接続できるだけの技術や設備を持っているのは大学や企業に限られていたので、メールアドレスはたいがい「名前@部署.会社名」などとなっており、事実上これは実名での投稿と同じようなものだった。ただし、投稿者の中にも好んでペンネーム(ハンドルネーム)を使う人がわずかにいた。JUNET が fj になり、利用者が増え、メールアドレスと実名が離れていくに従って、実名性が失われていった……と思うのだが、その頃には私はもうネットニュースを使わなくなったのでよく知らない。

もうひとつの(インターネット以外の)情報発信手段は、非インターネットのネット掲示板システムである。商用サービスはよく「VAN」と呼ばれ、そうでないものは「草の根 BBS」などと呼ばれていた、いわゆる「パソコン通信」の機能のひとつである*2。電話でセンターに接続し、センターのホストコンピュータが掲示板を管理する。利用者には ID が発行され、情報発信の際にはその ID あるいはそれとともに自分でつけたハンドルネームがつくものが多かったはずだ。すべてを知るわけではない。が、商用サービスでは実名のものを見たことがない。草の根 BBS はプロフィールを表示すると実名が見えるシステムもあったが、そうでないものもあった。それどころか、登録さえいらない BBS もあった。これはいまの匿名掲示板と同じである。いま考えると、利用者の良識と管理者(シスオペと呼ばれた)の腕によってうまく動いていたのだなと思う。

というわけで、2ちゃんねる以前、いや、ブログやインターネット掲示板以前に、日本のネットにおける情報発信には、実名によるもの以外のいくつもの「モード」が存在したのだ。実名とのリンクがやや強い電子メールアドレスによるもの、実名とのリンクは弱いが発信者が一貫して同定できる ID によるもの、発信者自身の意志によらなければ同一性さえ薄めることができる匿名のもの。その後に現れたウェブ日記コミュニティでは、多くの人が一貫 ID(と同等である、不変の URL)を採用した。今の多くのブログサイトが実名の公表を利用者に任せていて、多くの利用者が実名を明かしていないことは、この流れからは自然である。もちろん、商用で実名公表を強制したら客が減るということが大きいだろうけど。まあ歴史的にはそういうことだ。2ちゃんねるのせいではないと言ってよいと思う。

私は2ちゃんねる以前にできたアングラ匿名インターネット掲示板については知らないが、それらから引き継いだかも知れない現在の2ちゃんねるを見ると、上に見た中にないモードが含まれていることに気づく。完全匿名に加え、その日だけ有効な一貫 ID、発信者の意志による一貫 ID(トリップ)などである。

これらの「モード」は何を意味するのか。

ネット以前、個人の情報発信の手段は、いくつかの明らかに異なるやり方で行なわれるしかなかった。それだけの力がある人は、本や雑誌記事を執筆した。テレビ出演もできたかも知れない。新聞へのコラムの依頼もあっただろう。お金があれば自費で本や雑誌を出せたかも知れないが、余程のことがない限り選択肢にはなかっただろう。これらができない人はどうしたか。雑誌や新聞に投書して、編集者の目に留まることを願うか。ビラを何枚も印刷して、大きな駅に撒きに行くか。あるいは便所に落書きするしかないか。

取り得る手段が輝線スペクトルのようにしか存在しなかったということだ。

ネット技術は、個人の情報発信のモードを連続スペクトルにした。

大新聞と壁新聞の間が連続になった。記者と一般人の間が連続になった。碩学のコラムと子供の日記の間が連続になった。そして、実名と匿名の間も連続になった。個人は、自分の力と、目的と、環境と、発信する情報に応じて、もっとも適切と思う波長を連続スペクトルの中から選べるのだ。

さて、では匿名の情報発信(あるいは一貫 ID での発信)は、そんなに望ましくないことなのだろうか。

  • 個が自立していない「古い日本人」は世間を恐れて匿名性を好む。そのような集団から成る社会はインターネットに適応できない。これが日本がウェブに立ち後れている原因だろう。

「日本がウェブに立ち後れている」とは私は思わないが、前の2つはその通りだろう。しかし、「個が自立していない人間は匿名性を好む」からと言って、情報発信者が匿名を選択する主な理由を、個が自立していないことに求めるのは一面的じゃないだろうか。

日本でこれほど匿名志向が強い原因は,2ちゃんねるのシステム上の特徴もさることながら,個人が組織から自立していないため,実名で発言すると会社ににらまれるとか,友人に嫌われるなど,体面を気にしているのだろう。

例えば、「会社ににらまれる」は体面だけの問題とは限らない。「社員が個人として公表した意見は、会社とは無関係である」と会社が思ってくれなければ、個人がいくら自立していても実害が生じる恐れがある。つまり、個が自立するだけではなく、自立した個を社会が認める必要がある。日本ではこちらも欠けていないか。

もうひとつ。日本には(まあ日本に限らないだろうが)たくさんのタブーがある。実名でタブーを破るとき、個人は社会から排除される。破られた方がいいタブーがあるときに、匿名は実名よりも力がある場合がある。

以上の他にも、単なる自分の損得勘定や、他人への配慮による場合もあるだろう。実名を除くことによって伝えることができる情報のこともあるだろう。あるいは、娯楽的な意味から匿名度を選択する場合もあろう。

ネット外の世界でも、報道機関への情報提供や、選挙の投票、悪質企業の内部告発、事件の目撃証言、ご意見箱など、匿名性を利用した情報伝達が行なわれている。ネットでも、場合によっては匿名情報が役に立つことがあろう。情報発信者が匿名性を選べるのでS/N比は悪くなるけど、それはネットが可能にしたことと比較すれば大した問題ではない。2ちゃんねるという仕組みは、よいものも悪いものも生み出した。が、生み出したよいものの一部は、やはり匿名掲示板というモードでなければ不可能だったと私は思っている。

どんなモードでも、個人の考えが有効に発信でき、他人と共有できるなら、個の自立(それも大事だと思うけど)とは別に、それはそれでいいことだと思うのだ。逆に言えば、個が自立していない人でも情報発信ができることが、ネットの大きなメリットとも言えるんじゃないだろうか。

もちろん、匿名で誹謗中傷して、まともな議論をしようともせずに逃げていく輩を擁護するつもりは毛頭ないけれど。

このブログは一貫 ID ブログだ。私がこのモードを選んでいる理由はひとつじゃなくて、損得、配慮、娯楽、歴史的な理由、偶然などいろいろある。仕事先に睨まれるから、とは思わないけれど、迷惑をかけないようにしよう、という気持ちはある。そして、このブログだけが私の情報発信の唯一の手段ではない。場合によっていろいろなチャネルを使い分けている。それによって、できるだけ有効に情報を発信し、役に立つと思ってくれる人に拾ってもらえて、あわよくば楽しんでもらえるように努力しているつもりである。

日本では、実名ブログあり、一貫 ID ブログあり、匿名ブログあり、種々の掲示板やウェブサイトあり、ネットが可能にしたスペクトルをかなり有効に使っているので、あまりネット利用に関して立ち後れているようには感じない。とは言え、今よりも実名による情報発信が増えることは、バランスを考えると多分いいことなのだろう。池田さんのコラムも、実名ブログを書いてもいいかなと思う人へのエールなんだと思う。しかし、実名による情報発信が支配的になること、つまり実世界とネット世界の間に全単射が存在するような状態は、必ずしもネットのあるべき姿だとは私には思えないのだ。それではネットの力の一部しか使わない気がする。

*1:2ちゃんねるの歴史 - Wikipedia

*2:パソコン通信のその他の機能としては、利用者間でのデータ交換やメールサービスなどがあった。