何が目的でどれが手段か

また池田さんのブログでお勉強。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/11cc20ae9653982ebaf7269dca748589

「知る権利」というのは実定法で保障された権利でもないし

なるほど、憲法を見ても明文化はされてないな。でも、根本に戻って考えてみてはどうかなと思う。

ミルが「自由論」を書いた頃も、今の憲法が制定された頃も、当然インターネットはなかった。情報を入手するには、直接に人から聞くか、信書を交わすか、本や新聞を読むか、ラジオ(やテレビ)から得るぐらいしかなかった。その情報を保持するには、紙の形で所有するしかなかった。情報を発信するのも、人に直接に話すか、信書を送るか、本や新聞を発行するか、ラジオ(やテレビ)で発するしかなかった。

そのとき法は、通信の秘密を保証し、本や新聞を購入するという商取引の自由、集会に参加する自由を保証することによって「情報を取得する権利」を保証した。また、財産権によって「情報を保持する権利」を保証した。そして、通信の秘密に加え、表現や出版の自由を保証し、検閲を禁止することで、その時代の「情報発信の権利」を保証した。法の目的は、人々が情報を交換し議論する自由を守ることであって、その手段として、通信の秘密の保証、様々な自由の保証、検閲の禁止が行なわれた、と考えるのが、もともとの自由の目的からすると妥当じゃないだろうか。

世の中がデジタル化し、ネットができたことで、情報取得、保持、発信の手段は大きく変わった。それらの手段は保証されなくていいのか? 根本に戻れば、そんなことはないはずだ。目的が、人々の情報交換、共有、議論を妨げないことであるならば。

ネット以前の憲法に照らし合わせて、「検閲であるか」や「表現の自由を侵害しているか」をその字面で判断するのは、時代遅れと言うより本質を忘れた議論ではないかなと思う。