憲法に書かれている「自由」とは何だろう

神奈川県が「公共的施設禁煙条例」なるものを制定しようとしている。私はかなりのタバコ嫌いだが、この条例は全体主義の臭いがぷんぷんしてとても嫌である。

この手の価値観の押し付けのときの常套手段である、言葉の意味のすり替えが行なわれているのも嫌だ。「公共施設」でなく「公共的施設」。これらは違うものなのに、同じであるという印象を与えようとしている。これは最近の怪しい立法の動きに通じるところがある。「児童ポルノ」と「準児童ポルノ」。「不当な差別」と「人権侵害」。

タバコ好きが集まる店を経営することを、なぜ取り締まられねばならないのか。非喫煙者を守るために、入口に「喫煙可」と記せ、ぐらいでよいはずだ。商業を行なう自由、取引相手を選ぶ自由を制限し、非喫煙者の「『公共的施設』を煙なしに利用する権利」のような怪しいものを正当化しようとしている。

憲法前文の最初の文にこうある。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

ここでいう「自由」が、ミルの言う意味での自由でないのなら、いったい何を指すのだろう。日本人は、どのような「自由」の概念を共有しているのだろう。憲法に条文として書かれた、多数決で変えることのできる「自由」だけなのだろうか。(それすらも共有されているかどうか怪しいが)

日本では自由の原則は共有されておらず、単なる多数決で価値観同士が争っているだけなのではないか、と思ってしまう。