情報の単純所持を違法とすることの意味―児ポ法について

児童ポルノ画像などの単純所持を違法とする動きに関して。今回は、仮想児童ポルノ(あるいは「準児童ポルノ」)ではなく、実際の子供の画像などについて。

麻薬も銃も単純所持が違法だと思うが、児ポ画像が同じように違法ということに納得がいかなかった。いや、道徳的によくないというのは分かるのだが、それを処罰できることがとても気持ち悪いと感じた。なぜだろう?と考えて、ちょっと考えがまとまったので書いておく。

結論から。特定の情報(児ポ画像に限らず)の単純所持を処罰することは、事実上、個人が情報を持つことの禁止を意味する。

物質としての「もの」(麻薬や銃などという意味での)と、情報との間には、決定的に違う点がいくつかある。そのひとつは、個人が持つ情報は、個人が持つ「もの」に対して桁違いに多いということ。

ひとりの人間が持つ「もの」は、よほどの物持ちでない限り、せいぜい十万個程度ではないだろうか。それに対して情報は、どう数えるかによるが*1、仮に本の1ページの情報を1個と数えると、数百ページの本が1000冊あるだけで(これは蔵書としては必ずしも多くない)数十万に達する。写真を撮る習慣があるのなら、1000枚の写真を持っていても不思議はないだろう。スクラップブックに貼ってある新聞の切り抜きもあるだろう。捨てずにとってある古新聞の情報もある。

桁が違う理由はこうだ。本1冊に数百の情報がある。アルバム1冊に数百の情報がある。スクラップブック1冊に数百の情報がある。DVD 1枚に30枚×60秒×120分=21万6千の情報がある。

さらにパソコンに情報がある。いま私が使っているノートパソコンのディスクには1800万個以上のファイルが格納されている。

銃や麻薬の単純所持を自分がしていないかどうかを知るためには、高々十万個の物品を調べれば済む。しかし、ある特定の情報を自分が所持していないかどうかを調べるには、それに比較して桁違いに多い手間がかかる。

いや、「もの」の場合は、わざわざ十万個調べる必要はない。その「もの」を自分が持っているかどうか、頭に思い浮かべれば済む。しかし情報の場合はそうはいかない。なぜか。

人が情報を何らかの形で記して保持する最大の理由は、人間の記憶力に限界があるからである。つまり、人は、覚え切れないから、情報を保存するのだ。

したがって、自分が特定の情報を保持しているか否かは、その活動の本質から、自分の頭で思い浮かべることができないのが当然である。ある情報を獲得した時点では自分が何を獲得したかを意識できるかも知れないが、その後で忘れるだろう。だとすれば、自分が特定の情報を保持しているか否かを知る手段は、その時点で自分の持つ情報を全て調べることしかない。

さらに違う点がある。「もの」は、ほとんどの場合、取得した時点でそれが何であるかが分かる。それはりんごであり、自動車であり、銃であり、本である。それが白い粉であったり、薄黄色の液体であるような場合には、何であるかは分からないかも知れないが、怪しいものであることは分かる。

これに対して情報は、本として取得した時点では、含まれる情報が何であるかは分からない。新聞でもそうだし、DVD でも、zip ファイルでもそうだ。それらの内容を見て、はじめてそれが何か分かる。しかし、内容を見るには一定の時間がかかる。「もの」と違って、瞬時にそれが何であるかを判断することはできない。そもそも我々は、情報を手に入れたときにその中身を必ず最初に見るだろうか。本を買って積んでおいたりはしないか。DVD を何巻か買って、ゆっくり観たりしないか。それは情報の通常の利用法ではないだろうか。

さらにインターネットの利用においては、パソコンがネットからどのような情報を得ているかを利用者は完全に把握していない。定期的にメールを取得するメールソフトが、送りつけられてきた児ポ画像を迷惑メールフォルダに長期間保存していても、利用者は気づかないかも知れない。あるいはウェブアクセラレータが自動的にリンクをひとつ辿って児ポ画像をキャッシュに入れているかも知れない。

だから「一度完璧にチェックすれば、あとは自分が取得時に気をつければよい」というわけにもいかない。やはり、その時に(=常に)自分が持つ情報を全て確認しなければならない。

「もの」の単純所持を処罰できる暗黙の前提は、自分が何を持っているかを知っていることである。そうでないと責任が発生しない。しかし、情報について同じことを前提すると、人は自分が持っている情報の内容を常に知っていなければならないことになる。ところが上に書いたように、それを知るには、自分が持つ全ての情報をその都度確認しなければならない。そしてそれは、ひとりの人間が持つ一般的な情報の量を考えると現実的に不可能である。

ではどうすればよいか。「もの」の場合と同じように、頭に思い浮かべただけで、自分が特定の情報を持っていないことを確認できればよい。すなわち、自分の頭に入る分の情報だけを保持することにすれば、この問題は解決できる。しかし、頭に入るなら敢えて情報を何らかの形で所持する必要はあるだろうか?

つまり、特定の情報の単純所持を禁止することは、それが児ポ画像だとしても、情報を記録して保持するという人間の活動を事実上禁止することである。

情報の単純所持を処罰することに私が感じた気持ち悪さは、どうやら、自分が禁を犯していないという自信が絶対に持てない(持っている情報を常に完全に把握できないから)ことから来ていたようだ。

ミルは「自由論」の中で、思想の自由と表現の自由は切り離せないと論じた。僭越ながら、私はさらに「情報を保持する自由」を加えたい。人間の知的活動は、コンピュータ的な視点からは、情報の入力、情報の処理、情報の出力と見なせる。入力がなければ処理も出力も行なわれない。入力となる情報を個人が所持していることで、はじめて思想に基づいた思考ができ(処理)、それを表現(出力)できる。情報を保持する自由は、思想の自由や表現の自由に劣らないほど重要な自由だと言えないだろうか。

以前のエントリーで、著作権の問題に関連して「情報保存権」というのを考えてみた*2。意図せず、ここでも同じ概念が出てきたことに驚いている。

*1:ビットで数えたいところだが、不必要に話が細かくなるのでやめる。

*2:情報保存権と、著作権における私的複製 - DMZ: 非武装地帯