美徳につけ込むという有効な戦術

日本人が海外で騙されやすい理由の一つに、日本人は親切だからというのがある。一般に日本では、人を疑わず、同情し、親切にすべきだと教わる。もちろん日本人の美徳の一つだ。私もそこにつけ込まれて、海外でいくらか金を失ったし、危うく危険な場所に連れて行かれそうにもなった。

で、騙す側にとってなぜこのやり方が有効かを考えると、

  • 自分が何を企んでいようが、日本人が自分を疑わずに善を仮定してくれる。
  • さらに、日本人は人を疑うことをよしとしないので、疑おうとしても自分自身の罪悪感でそれを否定してくれる。

という理由が考えられる。もちろんそこまで考えて騙してるかどうかは知らない。

突然だが、最近世の中でいろいろと嫌な現象が起きていると感じる。その現象のいくつかが、上のやり方と同じ戦術、しかもそれの強化版を使っているような気がするのだ。なおこのやり方は、日本人の中でも通用することに注意。

一例。「いじめによる」子供の自殺問題で教師を責める。これはマスコミが主導している。仕組みはこうだ。自殺者には同情が集まりやすい*1。そして、教師が対立者の位置に立たされ、非難される。それに対して、例えば「教師だけに責任があったわけではないのではないか」のような意見を言うと(これが前述した日本人の「美徳」に反する)、「自殺者がかわいそうだ」と非難される。

戦術として強化されている場所はここだ。

  • 「美徳」に反する意見を述べる人間を非難し罪悪感を持たせることができる。それによってそのような意見を抑えることができる。

この戦術では、客観的事実がどうであるかが関係ない。教師が実際にどのくらいいじめに関与していたか、そのいじめがどのくらい自殺に関係したのか、そういうこととは無関係に、対立する意見を抑えることができる。マスコミの意図が何であろうが。

もう一つの例。沖縄と教科書検定。沖縄には集団自決で苦しんだ人がいた/いる。彼らに同情するのであれば、集団自決に関する記述は教科書に載せるべきだ。それに反対するのは、事実はどうあれ、教科書に載せることの適切さはどうあれ、美徳に反するものとして非難される。ここでもまた、声高にこの問題を叫んでいる人々の意図は分からない。

南京事件慰安婦問題も同じ。

まだある。セクハラに代表される「〜ハラスメント」の問題。ハラスメントは「被害者」が「どう感じたか」が大きな基準となるが、被害者の心の中は本人にしか分からない。そこに善を仮定し、同情しなければ、非難される。その結果、「加害者」は罰せられる。「被害者」の意図は分からない。

痴漢冤罪の問題。痴漢は事実認定が難しい。車内で大声を上げれば、その「被害者」に善を仮定しなければならない。以下同じ。

人権擁護法案もそうだ。差別を受ける側に同情しなければ、美徳に反し、罪悪感を持つことになる。また、非難される。だからその美徳を守るために(罪悪感を感じないために)人権擁護法案を支持しなければならない。その法案の妥当性や、発案者、推進者の意図とは関係なく。

つまり、日本人の美徳とされているものが、真実を認識する妨げになるケースがあり、しかもそれが悪用される可能性があるということだ。(というか、既に悪用されている気がする)

ここでもう一つの問題が絡んでくる。それは、心の弱さだ。

心が弱いと、自分はやさしくされたい。同じ基準を他人にも当てはめるためには、他人にも同様にやさしくすべきということになる。これによって、同情の度合いが高まり、上の戦術がさらに有効に働くようになる。

世の中で、心を強くする、ということをあまり言わなくなったように思う。これも同情心からかも知れない。この動きには正帰還がかかる。皆が弱くなり、それが後に続く人を弱くし。これはさらに上の戦術を有効にするのだが。

美徳はよいものだ。だが、それが真実を見極めるのを妨げてはいけないと思う。それでは単なる自己満足に過ぎないし、誤った認識に基づいた行動は自分のためにも他人のためにもならない。

できるだけ多くの人が、美徳は保ちつつも強い心をもつ。そういう世の中にならないものだろうか。今のままでは、上の戦術を使う貪欲な人々によって世の中がどんどんおかしくなってしまいそうだ。

関連項目:心を鍛えること - DMZ: 非武装地帯

*1:私自身は、自殺は悪いことだと考えているので、同情はしないことにしている。