心を鍛えること

健康でいるためには適度な運動をして体を強く保つべし、という考え方は一般に受け入れられているようだけど、心の健康のためには適度な精神的負担を受けて心を鍛えるべし、という話はあまり聞かない。むしろ、個人の心の負担を社会(つまり他人)ができるだけ取り除くべし、という流れに見える。もし「心を鍛えること」がタブー視されているのだとしたら、その原因は戦争(戦前教育)のトラウマである可能性が高いだろう。

しかし、体と心を全く別のものとして扱うよりも、同じように扱った方が見通しがいいように思うのだ。

体の強い人や弱い人がいる。持って生まれた体質もあるだろうし、それまでの生活が影響しているかも知れない。自分の体の弱いところは知っているから、それに気をつけて生活すると同時に、可能ならば生活の中でその部分を強くしていけるならいいことだ。適度な運動をして体に負荷をかけておくと、生活の中でちょっときついことがあってもしのげるようになる。しかしどんなに気をつけていても、外的要因や自分のリズムによって体調を崩すこともあるだろう。軽い場合には食事や睡眠で治すが、ひどい場合には医者に行き、必要ならば薬をもらうだろう。

心も、強い人や弱い人がいる。心の強さとは、例えば、批判にさらされたときに落ち込んでしまうか、適切に処理できるかなど。あるいは侮辱されたときに平然としていられるか、とか。そのような強さは、もともとの素質や、育った環境の影響で決まるだろう。もし自分が批判に弱かったら、どのような時に批判されやすいかを知っておくと同時に、批判に対して落ち込まずにいられる考え方を学ぶことができるだろう。軽い批判に普段からさらされていれば、公の場での突然の批判にもあまりうろたえずに対応できるかも知れない。もちろん、気分的に弱っているときに痛いところを突かれればショックで落ち込む(抑鬱になる)こともあるだろう。落ち込んだぐらいなら気晴らしや気分の切替でなんとかなるだろうが、全人生を否定されたぐらいの場合には、カウンセリングでも受け、必要ならば薬をもらうかも知れない。

……きれいに並列だ。心を司っているのは脳で、脳も人間の器官の一つだから、体と似たような性質を持っている、と私は大雑把に理解している。体質に対して「心質」、体の癖に対して心の癖。違いを見つける方が難しいくらいだ。

世の中に目を向けてみる。交通機関は人ができるだけ早く楽に移動できるように発達してきた。それでも人はスポーツクラブに行き、草野球をし、山に登り、海で泳ぐ。みんなそれが体にいいと知っているし、きつくても楽しさがあると知っているからだ。そして、そうやって鍛えた体を自分のため社会のために有効に生かすことができる。

しかし心のことを考えてみると、学校はいじめを撲滅しようとし、会社では部下に対する上司の「嫌がらせ」を禁止しようとし、はてなは「精神的被害を与える行為」を禁止する。これらはないに越したことはない。が、このようなことを完全に世の中からなくすことはできるだろうか。小学校でいじめを禁止したら、中学校でのいじめに対処できない。中学校で禁止しても、高校がある。学校で撲滅しても、社会に出れば、会社にだって、街の組織にだって問題はある。個人には問題処理能力がつかず、社会は禁止禁止で雁字搦めになる。そして、そうやってできた人間が海外で役に立つか? そして、その人は幸せか?

それよりは、こうじゃないのか。学校でいじめはあるものだ。ひどければ先生に言いつけるなり親に泣きつくなりする。会社でひどい目にあったら、軽ければ相談できる相手を探して何とかする。ひどければさらに上の上司に何とか伝える。あるいは休む。医者に行く。カウンセリングに行く。警察に行く。辞表を書く。ずるくてもあくどくても何でもいい。自分なりの対処法を経験から見つければ、それは後できっと役に立つ。そして、自分の心を無理のない範囲でいつも鍛えておく。そうすれば恐れることなく生きていけるし、自分を最大限に発揮できる。そうなった自分が、最低限の禁止だけがある自由で風通しの良い社会で生きるのは幸せじゃないだろうか。

……と、以前はいじめられっ子で自意識過剰、依存心が強く、すぐに抑鬱に落ち込むほど弱かったけど、今はきっとかなり強くなった人間は思うのでした。