「人権」の曲解による国家の詐術

個人情報保護法健康増進法あたりから、立法の方向性が何かおかしいと思っていたが、人権擁護法案について考えて、ようやくその理由がわかってきた。

国民が、人権(基本的人権)とは何かをよく分かっていないのを利用して、「人権保護」の名目で、基本的人権である自由権を制限する立法を続けているのだ。

以下、大雑把だが、忘れないために。

基本的人権について、その権利者は国民一人一人であり、その義務者は国家である。基本的人権に関する、国民と国家の間の契約が憲法である。

国家は暴力を独占する。刑罰権である。これは国民に対するもっとも強い力だ。その恣意的な使用から国民を守るのが、基本的人権である自由権である。したがって自由権は、基本的人権の中でもっとも重要な権利だ。

基本的人権の権利義務関係は国民と国家にある。これを、国民と国民の間の関係にも当てはめようとする考え方がある。私人間効力(しじんかんこうりょく)と言う。日本では、基本的人権(つまり憲法の規定)の私人間効力は直接にはないとされている(三菱樹脂事件)。

しかし、「人権教育」のおかげで、国民の多くは、人権は私人間に及ぶと信じている。

するとこうなる。個人情報はなぜ守られねばならないか。それはプライバシーだからであり、人権のひとつであるプライバシー権を守るためだ、と。そしてプライバシー権は私人間にも及ぶのだから、企業は、個人のプライバシーを侵害しないようにせねばならない、と。

ここでコペルニクス的転回が起きる。「それでは個人のプライバシーを守るために、国家が企業に刑罰を科す立法をしましょう」と国家が言うのだ。

人権は、プライバシー権も含めて、国民の権利であり、それを侵してはならない義務を負うのは国家のはずだった。それなのに、人権を守るという理由で、私人(ここでは企業)のもっとも重要な人権である、自由権を制限するのだ。そして個人情報保護法の義務者に国や地方自治体は入っていない!

健康増進法も同じだ。国民の健康(社会権)を守るために、喫煙者に、あるいは商店に、刑罰を科す。

児ポ法もそうだ。児童の人権(児童ポルノについては肖像権ぐらいだと私は思うのだが)を守るために、児童ポルノ所持者に刑罰を科す。

人権擁護法案も同じ。誰かが差別されないようにするために、その他の人々に、刑罰を科す。

そのうち多分、性的嫌がらせ(セクシュアルハラスメント)その他の「〜ハラスメント」についても似たような立法の動きが出るだろう。

憲法の規定は直接私人間に効力を及ぼさないが、それを基にして刑罰法規を作ることは違憲には当然ならない。しかし、それによって上に見るように、自由権が次々と制限されていく。本来は私人間の問題として、つまり民事として、刑罰なく債権債務の関係で処理できるはずのものに、国家が刑罰をもって介入することによって。

しかしここでほころびが出た。差別されない権利、平等権は、私人間には本質的に適用できないのだ。(この話はまたいつか。)

ともあれ、立法者が用いている詐術が分かった気がする。いや、それを後押ししているのは有権者たる国民だ。

日本国憲法 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

不断の努力。我々はしているだろうか。