差別教による弾圧がはじまる

差別を絶対悪と見なす宗教がはびこっている。

差別は絶対悪か。今の世の中、すべての価値は相対的である。殺人などならともかく、差別が絶対に悪であるとは、即座に結論できない。

それなのに、多くの人が無条件に「差別は悪いことだ」と思っている。なぜか。

そう聞かされてきたからだ。学校で、あるいはテレビで、あるいは新聞で。人は平等である、差別は悪いことである、と。

「いや、そう聞かされてきたかも知れないが、それはともかく、差別は悪いことなのだ」と思う人に訊きたい。「人を憎むのは悪いことか? それは絶対に悪か?」と。

「人を憎むことは悪いことだ」というのはひとつの価値観であり、それを絶対の行動規範とするならそれは宗教である。差別も憎しみと同じく心の問題であり、「差別は悪いことだ」も価値観のひとつである。だから差別を絶対悪とするのは、宗教である。

そこでこの宗教を差別教と呼ぶことにする。

「いや、差別は人権侵害だ。だから悪いのだ」と言うだろうか。

それは世の中にはびこっている大きな誤解である。差別そのものは人権侵害ではない。差別によって人を殺したら人権侵害だろう。しかし、差別によって例えば人を無視することは人権侵害ではない。人権侵害になるのは、差別による行為が人権侵害行為であるときだけだ。

いやだから差別が人権侵害の原因になっているのだ、だから差別は悪いのだ、というのが差別教の論理である。では訊こう。憎しみは人権侵害か。憎しみによって人を殺したら人権侵害だろう。憎しみによって人を無視するのは人権侵害ではない。人権侵害になるのは、憎しみによる行為が人権侵害行為であるときだけだ。差別も憎しみも変わらない。差別教では憎しみも禁止するのだろうか。妬みも、恨みも、嫌悪も、禁止するのだろうか。

差別教は、それらは禁じないが、差別は禁じる。これは、合理性に基づかない、「差別は悪である」という特定の価値観による規範であり、だから宗教である。

差別は、差別教における原罪である。人間は、いや、少なくともある程度の知能を持った動物は、差別をまったくせずに生きていくことはできない。差別とは、集団に対する先入観による判断である。その集団にいる個人と関わる前に、集団によって個人を判断することだ。人間にひどく扱われた犬は、人間を嫌う。それが身を守ることになるからだ。日本製の品物がよいと思った客は、次にまた日本製のものを買う。それが利益になるからだ。見た目がとても暴力的に見える人には、近づかない。危険だからだ。相手を先入観を持たずに個人として判断するのは理想的だが、現実にはそれができないことがある。殴られてからでは、殺されてからでは、不利益を与えられてからでは遅いのだ。

だから差別教はキリスト教とは違い、原罪を強調する必要がない。信者が一度「差別は悪い」という価値観を自分のものにしてしまえば、あとは実生活において自分が差別意識(=集団に対する価値判断)を感じる機会には事欠かないからだ。

差別教は、中世カトリック教会よりも徹底的である。カトリックキリスト教の中での異端を弾圧した。差別教は、その信者だけでなく、すべての人間を、法律で、条約で、縛ろうとする。日本では今まさに、差別教による弾圧が始まろうとしているところである。

なぜそんなことができるようになったのか。

ナザレのイエスが教えを広めているとき、彼は弾圧を受けた。彼の教えに続く者が力を持ったとき、今度はキリスト教が弾圧する側に回った。

「差別が悪い」と思う人間が少ないとき、差別教は弾圧する力を持っていなかった。しかし、その教えを学校が、テレビが、新聞が何十年もかけて広め、多くの人間がそれを信じるようになったいま、差別教は弾圧のための力を持った。差別を少しでも肯定するような発言はタブーとなった。「差別が悪い」と信じない者は異端である。差別を助長する者は罰しろ。そういう主張が、少数の「異端者」の声を圧して、世の中に受け入れられるようになった。その「異端者」とは、我が国の憲法に書かれている自由の価値を信じる者たちである。

ナザレのイエスは、汝の隣人を愛せと言った。彼の教えに続く者は、異端者を火あぶりにした。異端者は隣人ではないのか。そうでない、と解釈したとしか思えない。福音書は曲解されたのだ。

差別教は人権をうたい文句にしている。教典は我が国の憲法だ。差別をしてはならない、人は平等である、と差別教が主張するときに根拠にする条文は、憲法14条である。

日本国憲法第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

これは「法の下の平等」を規定している条文である。法の下の平等とは、国民が、法律の適用など、公権力による扱いにおいて差別されないことだ。一般人(私人)の間の平等を意味するものではない。ここで「すべて国民は」となっていることにも注意しよう。法の下に平等なのは、国民である。

差別教はこの条文を曲解し、一般人の間の差別を禁止するものと解釈する。差別とは、集団に対する価値判断であり、それは思想である。同じ教典にこうある。

日本国憲法第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

この条文によると、差別は禁止できない。14条と19条は矛盾しないのだ。しかし差別教は14条を曲解し、19条は無視する。

そして差別教は弾圧をはじめる。「汝の隣人を愛せ」という明らかな指示に従わず、教典を曲解して異端審問を行なったカトリックと同じように。差別を禁止することによって、思想を、表現を、さまざまな行為を制限する。差別を「助長」するものを悪とし、禁止する。

差別教信者は、差別がなくなれば皆が幸せになると漠然と思っている。では差別の全くない世界を考えてみよう。男が女だけを結婚相手に選ぶのは差別である。男も平等に選ばなければならない。恋愛相手に日本人だけを選ぶのは差別である。外国人もまんべんなく選ばなければならない。採用試験で優秀な者だけを採用するのは能力差別である。あらゆる能力の人間を採用しなければならない。商取引の相手に特定の国の会社を選ぶのは差別である。さまざまな国の会社と取引しなければならない。オウム真理教に事務所を貸さないのは差別である。宗教に関係なく、賃貸しなければならない。

ナンセンスだと言うかもしれない。しかし、これらの差別は許すと言うのなら、どこかで「やっていい差別」と「やっていけない差別」の線を引かなければならない。それは、何を基準に引くのか。いや、誰がその線を引くのか。

その線を引く人間たちが、差別教の支配者である。我々の思想は、彼らの線引きひとつによって、許可され、禁止される。そしてその恣意的な線引きの妥当性を疑わさせないように、彼らは表現の自由を制限する。あるいはそういう疑いを持たせるような言論をタブー化し、被支配者たちが自己検閲するように仕向ける。

自由を信ずる異端の者は違う。彼らは、他者に危害を与えるかどうかで線が引かれるべきだと考えている。そして、この知恵は人類が歴史から学んだものだと思っている。そして何がより良く、何が悪いかを知って皆が成長し、各々が幸せを追求できるように、そしてその結果として社会が良くなるように、思想の自由、言論の自由表現の自由は守られねばならないと考えている。

しかし差別教によって彼らは弾圧される。支配者が恣意的に定める基準によって、集団に対する価値観を持つことと、その反映である行為―「不当な差別」と呼ばれることになる―を禁じられるのだ。その差別されない「誰か」は差別教によって特権を与えられる。差別されない特権、批判されない特権、差別を解消してもらうために利益を得る特権だ。「逆差別」と呼ばれるこの特権は、憲法14条を侵す。

日本国憲法第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

一般の人は持てない、「誰か」だけが持てる特権。一般の人を差別することによって、差別教の支配者が得る特権。

差別教が崇めるものは、差別そのものである。人の心の中に必ずある差別意識を禁止し、罪悪感を持たせることによって、自らが差別的に特権を得る。それに反対する異端の者は処刑する。それを可能にするのが差別教だ。

人間はなんと愚かなのだろう。あれだけの悲しい血を流しておきながら、また同じことをしようとしているとは。

異端の者は考える。たしかに差別は原罪である。先入観はときに必要で役に立つが、個人を見ていない以上、ある確率で判断を誤る。そのとき相手は、自分が正しく評価されなかったと悲しく思うだろう。先入観に頼る場合には、それが誤っている可能性を考慮に入れるべきだ。自分のためにも、相手のためにも。差別には誤りが必ずつきまとう、という意味で、差別は望ましくない。

しかしそれは、相手に危害を与えない限り、道徳の領域の話である。「人を見かけで判断してはいけない」に似たようなものだ。思考のだらしない人間は、何の考えもなく肌の色で相手を差別するかもしれない。が、人は他人に危害を与えない限り自由であり、そこには間違いを犯す権利が含まれる。彼はまだバカなのだ。彼にすべきことは、思想を強制することでなく、理を説くことである。そのためには、彼が何かを知ることを妨げてはいけない……

異端の者の声は、どこかに届くのだろうか。それとも、人間はまた同じ過ちを繰り返し、異端の者はまたその火に焼かれるのだろうか。