価値の一元化がなぜ進展するのか(あるいはグローバル化の正体)

秋葉原の事件をきっかけに、いろいろなことをぼーっと考えている。何か事件が起きると、何かひとつを原因にしようとするのがマスコミの常套手段で(もちろん自分に都合のいい原因をもってくる)、きっと今回もそんなことをしているんだろうな、と思っている。でもテレビなど見ないので事件の詳細は知らない。

関連して、格差社会とか、友達がいるとかいないとかが聞こえてくる。思考は横滑りして、事件とは全然関係なく、もてるとかもてないとか、ちょっと前に流行った勝ち組だの負け組だの、そんなことを考える。

そうしたら、いろいろなことが、ひとつの物差しで何かを測るという価値の一元化に関係してることに気づいた。その価値観は誰が作ったものか。どんな顔が美人か。どんな服が格好いいのか。どんな生活が「セレブ」なのか。どんな恋愛が理想的なのか。どんな人生が「勝ち」なのか。

それぞれのことがらについて価値が一元化されれば、それについて勝者と敗者が決まる。勝者は強者であり、敗者は弱者だ。

いや、そもそも格差社会という言い方そのものが一元的価値を前提としてる、か。

もちろん流行りのグローバル化も価値の一元化だ。

グローバル化は止められない、と人は言う。確かに進展しつつある。なぜだろう。

何らかの価値観に一元化されることが歴史の必然なのか。そんなことはない。それが何でもよいのなら、全ての国が保護貿易主義をとってもいいはずだ。でもそうではなく、自由貿易グローバル化だと言う。同じく、知的財産権の強化もグローバル化らしい。テロへの対策強化も。なぜそれら特定の価値観に一元化されねばならないのか。

価値の一元化は、勝者と敗者、つまり強者と弱者を作り出す。逆に言えば、ある価値観のもとでは、ある者は強者であり、ある者は弱者だ。ではもし自分が価値観を他人に強制できる立場にあるとしたら?

そうしたら、自分が強者になれる価値観を強制するだろう。自分が有利となるゲームルールだ。

そうか。グローバリゼーションとは、あるプレイグラウンドですでに強者である人間が、そのプレイグラウンドを広げて同じルールでプレイする人間を増やすことだ。つまり、「俺のルールでプレイしろ」ということだ。グローバル化。地球全部、俺のルールで。

グローバル化は時代の流れだ」「グローバル化は押しとどめることはできない」「日本もグローバル化しなければならない」こんなことを言ってるのは誰だ。その動機はなんだ。

価値の一元化は最近日本が全体化しつつある原因にもなってそうだ。