自分に優しく他人に厳しい × 多数 → 全体主義

突然「不寛容の時代」という言葉が思い浮かんで、ここ十年ぐらい感じている違和感をうまく説明してるぞと思った。そしたら結構すでに世の中で使われてる言葉だった。

不寛容の時代 - 「空気」に異議あり!

ここではマスコミや左翼が気に入らない言葉を抑えつけることを言ってるけど、私が思ったのはそこだけじゃない。一般人の間にも不寛容が広がってる気がする。

例えば、商品やサービスに不都合があった場合にクレームをつけることとか、損害賠償を求めるとか、学校で何か問題があった場合に学校の責任にするとか、自分が何かに対して不愉快を感じたときに、その原因を他者に求めるとか、そういうことが以前(二十年前ぐらい)に比べて多く見られるようになった気がする。大雑把に、「自分には損をしない権利がある」という人生観、そんなものを感じる。自分が関わる他者に対する不寛容、と言えばいいか。

さらに、社会に対する不寛容性ってのも感じる。どこかで誰かが何かをして、それがニュースになる。これに対して、当事者でもなんでもない人がその関係者を非難する、というのをよく見る。「不適切」な発言に対する反応とか、いじめ問題に関する学校関係者への非難とか。あと、ブログでよく見る「炎上」なんてのもそう。建設的な批判ではない、単なる非難であるものが多かったりする。自分は直接関係ないが、そうあってほしくないというものに対する不寛容。道徳的不寛容、と言えるかな。

それと同時に、自分に対する寛容度が逆に上がっているように思う。上の「損をしない権利」もそうだし、最近流行りの「癒し」を求める心の方向もそう。

以前の日本人(という括り方はいい加減すぎるけど、まあ現在と比較して、と言うくらいの意味で)は、自分に厳しく他人に厳しいことを良しとする考え方を持ってたんじゃないかと思う。例えば弟子に技を教える職人は、そうでないとやっていけない。会社でも学校でも、結構そうだったんじゃないかな。

その価値観が崩れて、自分に優しく他人に厳しい人が増えてきたんじゃないだろうか。

自分に優しい人は、自分を守るために、他人に厳しくせざるを得ない。自分に嫌な思いをさせないという義務を他者に押しつけるしかないから。何か商品を買って不具合があったら、自分の選択眼がなかったと判断するかわりに、商品の製造元や店が悪かったと判断する。何かの情報(ウェブでも、本でも、報道でも)を目にして自分が不愉快になることが、自分の考え方のためだと判断せず、そのような情報を出す方が悪いと判断する。これが上に書いた不寛容の原因になってないだろうか。相手からは僅かたりとも損失を与えられず、社会のどこでも(自分の思う道徳が行き渡ることで)自分が傷つかないようであってほしいのでは。

そういう自分に優しい人は、自分を他者に守ってもらうために、保護のためのシステムや法律に頼りたいと考えるだろう。システムに頼りすぎというのも、ここんとこ感じている傾向のひとつだ。

で、最近次々と出てくる怪しい法案、人権擁護法案とか児ポ法改定とかネット規制とか、そういうのを肯定する世の中の雰囲気は、自分に優しいという心の方向性の集まりからできてるんじゃないだろか。

寛大という言葉は、全体主義の出現とともに消え去る、とかハイエクも書いてたっけ。やはり多様性を容認するぐらいに個人が強くないと自由は守られないのだな。このままスムーズに行ったら日本は簡単に全体主義国家になりそうだ。

自分に厳しく他人に厳しいのは、なぜか流行らなくなったみたいだ。でも、自分に厳しければ、他人に優しくもできるように思う。努力して良い製品を作る人は、きっと他の製品に多少不具合があっても、製品を作る苦労を知っているから、寛容になれるだろう。「いじめ問題」でマスコミに吊るし上げられる教師に対して、全国の教師は、人を教える苦労を知っているから、それを知らない人々より寛容だろう。

もうちょっとシステムに頼らない社会にして、自由度を保っておきたいところだ。国会にはちょっと法律を作るのを休んでもらいたいくらい。給料はもらってていいからさ。