学校は、問題解決能力を育ててやる場ではなかったのか

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2007/12/01/06.html

同大によると「ちゃん」付けに関しても「あくまで学生本人が不快に感じている」ということを考慮したという。

教授は委員会の聞き込みを受けるまで、女子学生を不快にさせているのは知らなかったが、パワハラだったと認め、反省しているという。

学生の、驚くべき自己解決能力のなさだ。子供が友達と何かあったときに、家に帰って親に泣きつくのと何ら変わらない。そして「〜ハラスメント」私刑が有効に働いている。
セクハラの気持ち悪いところ - DMZ: 非武装地帯

山梨大の処分はもちろん社会に対する体面のためだろうけど、「うちでは学生に問題解決能力はつけませんよ」という宣伝にもなってしまうね。

学生のこの行動、世の中で最近よく見る、法律を作ってもらいたがる傾向と重なる。自分で解決しない、できない、しようとしない、だから権威に頼る。

もひとつ、努力の段階を踏むということを知らないのでは、という感じがする。問題があったときに、いきなり自殺してしまうとか、それと似たもろさ。弾力性のない金属のような。

不快感は個人が自由に持てる。その不快感で他人を罰することができれば(〜ハラスメントや人権擁護法(案)を使えばできる)、人々は言論を差し控える。そうすると思想統制が簡単になる。さらに権威主義と相まって全体主義化が容易になる。というか、もう全体主義化しつつあるように思う。

そしてどうやら学校も全体主義化に加担しているみたいだ。

「〜ハラスメント」を喧伝している人々は、きっと人権の拡張をしているつもりなんだろうな。いい気なものだ。思想の自由+「〜ハラスメント」→自由権の侵害、だというのに。