過剰な注意書きに思うこと

「刃物です。切れますのでご注意下さい。」

こんな注意書きが珍しくなくなった昨今だ。もちろんこれは製造物責任法のせい。今や注意書きは使う人のためでなく、売った側が責任を逃れるためのものとなった。分かりやすさなんて関係ない。書いてあれば責任を回避できる。たくさんの警告や注意など、よっぽど奇特な利用者でない限り熟読なんてしないだろう。もちろん法律に従えばこういう状況になるのは当然。別に企業が悪いわけではない。

注意を伝えて理解してもらうためには、その意味が理解できるだけの前提知識が必要だ。その知識が欠けていたら伝わらない。もし知識が全くないという最低線を想定するなら、何を書いたって読み手は理解できない。結局、100%の人に100%理解してもらうことは不可能ってことだ。どこかに常識のラインを引くしかない。そのラインが高ければ企業も利用者も活動がスムーズになる。低ければ企業は構え、利用者は読みもしない大量の警告や注意を浴び、どちらも不幸になる。

こう考えると、義務教育のレベルってのは社会を円滑にするのに役に立つんだなと思う。もっとも、包丁が切れるなんてことは学校で教えるようなことでもないが…

法律は二分法だから、どうしてもこういう害が出やすい。最近は猫も杓子も法律を作りたがっているように見える。そしてどういう法律を作るかばかりが議論されて、法律を作らない方がいい、という考え方にはあまりお目にかからない。

私は基本的には「なくてもいいルールは作らない方がいい」と考えるほうなんだが。

法律は作れば作るほど支配者が有利になる、なんて考え方はあまり一般的ではないんだろうな。