罪悪感はあるが反省はしていない

教科書検定だの9条だの、あの戦争に関連する難しい問題はたくさんあって、話題に上るたびにマスコミをはじめとしていろんな人がいろんな意見を言う。よく出てくる言葉は「反省」だ。「先の戦争の反省に立って」とか。つまり、戦争をしたことを反省した、反省している、反省すべし、だ。

でも、我々日本人は先の戦争を本当に反省しているのだろうか。私にはどうもそう思えないんだが。

反省するとはどういうことだろう。

例えば私が友達を殴ってしまった。とっても嫌なやつで、私の筆箱を隠したりノートに落書きをしたり、腹の立つことをするやつだった。でも、殴るのはよくない。考えてみると、彼が私に嫌なことをしてきたのは、確かに彼の性格の問題もあるけれど、私がもっとこういう風に対応すれば、彼もそこまでやらずに済んだのでは。じゃあこれからはカッとなって殴らないように、あらかじめこういう風に行動し、彼にもそのように働きかけよう。

…こういうのが反省だと思うのだ。別に戦争のアナロジーをやっているわけではない。自分が、やるべきでなかった行為について反省することとはどういうことか、という話。

日本はどうだったのだろう。世の中一般の見方はどうもこうらしい。

日本は指導者によって戦争に駆り立てられた。多くの国民がその戦争で犠牲となった。その戦争は悪い戦争だった。その責任は当時の指導者にある。日本人は悪い戦争をしたのだから、同じことを繰り返さないように、軍備はすべきでない。

なぜ多くの日本人がこのように考えるようになったかは江藤淳「閉された言語空間」を読めば分かるし、書きたいのはそのことじゃないので略。WGIPのせい、ととりあえず書いとく。

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)

さて、この見方の論理性を考えてみる。「責任は指導者にあり、国民は騙されていた、国民は犠牲者だ。」

戦前の日本も、普通選挙を行なっていたという意味では民主主義だった(もちろんその制度は今から見れば不完全なものであったが)。翼賛体制を作ったのも、元を正せば民主主義の主権者である選挙権者だったということではないのかな。つまり、戦争の責任は国民にあった、と見なさなければならないと思うのだが。指導者が悪かった、と言うのは責任逃れではないだろうか。

もし責任が指導者にあり国民になかったのなら、「日本は悪かった」と国民は反省できないのではないだろうか。似たような例がよくある。政治家の秘書が賄賂を受け取っていた。それに対して政治家が「私には責任はないが、秘書がそのようなことをするのは私の不徳の致すところだ」と発言する。これは、賄賂に対する謝罪になっているのだろうか。私はこういうのを聞くたびに、騙されたような気分になる。なぜかというと、謝罪や反省はその責任を負っている人間からのものじゃないと意味がないから。原因も理由も分からない人間の「反省」が何の役に立つというのか。

そして、だからこそ、日本人の「反省」は思考停止している。日本が戦争を始め、資源を求めてアジア各国に侵攻していった原因は何か。それが分からなければ、今度起こしてしまうかも知れない戦争を止めることはできない。これに対して、「反省」しているはずの日本人は「日本人が悪かったから」「日本人はそういう人間だから*1」以上の説明ができるのだろうか。私は戦後教育とマスコミからの情報の中で育ったが、不学ゆえかその中でこれ以上の説明を聞いたことがない。

WGIPは、日本人に罪悪感を植えつけたが、反省はさせなかった。なぜなら、友達を殴ったたとえで見たように、反省をするには原因の分析が必須であるのに、原因を見せずに罪悪感だけを与えたから。同じたとえで言うとこう。私は友達を殴ってしまった。それは悪いことだと先生に言われたから、罪悪感を持った。だから誰も殴らないようにしている。以上。そして思考停止。私は多分、抑え切れない怒りをためて、また友達を殴るだろう。あるいは、殴る代わりに友達に嫌がらせをするだろう。

日本は軍備をすべきかという話を、少しは物が分かると思っていた友人にしてみた。「日本人は軍を持つと何をするか分からないから、持たない方がよい」という答えだった。WGIPの効果は絶大だ。罪悪感からの自己不信(他国(アメリカ)の軍なら信用できるというのか?)。個人の心理として考えればこれがいかに歪んでいるかがわかるし、この考えは人や国は成長するという大事なことを見落としている。子どもの頃に金を誤って浪費してしまった人間が、自分は金を持つと浪費するからと、大人になっても金を持つことを拒んでいるようだ。彼は反省しているのだろうか?それとも自分の責任から逃げているのだろうか?

反省は成長に欠かせない。

いま世の中は、罪悪感による操作で満ちている。個人間では昔から常套手段だったが、今では国家間にも使うようになった。これは、国家の関わり方がより洗練された(暴力よりは文明的)という点では喜ばしいことかもしれないが、真っ当な関係ではない。罪悪感は悪用も簡単だ。

先の戦争に関して、いま日本に必要なのは、罪悪感ではなく、反省だと思う。日本は戦争をしたくない。どの国にもさせたくない。戦争をしないためには、させないためには、日本の戦争、その他の戦争について、反省をして、何をすべきで何をすべきでないかをきちんと考えた方がいいのではないか。

例えば、資源封鎖が日本を開戦に追い込んだという面がある。もしそうなら、どこかの国に対して資源封鎖をするのは戦争の危険があるということだ。また、開戦前に朝日新聞毎日新聞が好戦的な気分を盛り上げたという話もある。もしそうなら、マスコミによる報道が雰囲気を作るのは危険だとも言える。あるいは、戦争によって売り上げが伸びるような企業が、政治家を通じて戦争への道筋をつけた、ということもあるかも知れない。もしそうなら、そういうことができないように企業と政治家との間は切っておかなければいけない。ドイツでは、自由主義資本主義が行き過ぎて中産下層階級が競争に晒され不満が増大し、全体主義化してナチの台頭を招いたという分析がある。もしそうなら、いま日本で急激に進行しつつある競争社会化は、戦争につながる全体主義の温床にならないか。

ただ罪悪感だけを感じていては、何も分からない。もう罪悪感によるゲームはやめて、戦争を防ぐための本当の反省をするときではないのだろうか。

*1:きわめて非論理的だが、どうもこう思っている人が多いようだ。アメリカは各地に戦争を仕掛けている。それは、アメリカ人がそういう人間だから、なのか。