「差別=人権侵害」という誤解

何度つぶされてもゾンビのように蘇ってくる人権擁護法案。これを支えてるのは、差別は人権侵害だ、という誤解だと思うんだよな。

差別そのものが人権侵害なのではなくて、差別によって何をやるかで、場合によって権利侵害になる、が正しい。友人といろいろ話をして、それがようやく分かった。

というわけでちょっと説明してみます。

まず差別とは何かを辞書で確認します。大辞林第二版から。

(2) 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。「人種―」「―待遇」

3つのポイントがあります。

  • 偏見や先入観にもとづいていること。これを「差別意識」と呼ぶことにします。
  • 特定の人々、つまり集団に対するものであること。
  • 「扱い」であること。つまり誰かに対する「行為」があります。

例えば、日本人(集団)は不潔だから(差別意識)殴る(行為)とか、火星人(集団)は貪欲だから(差別意識)商取引をしない(行為)とか。こういうのが差別です。

さて、世の中には2つの差別のパターンがあります。

  1. 国(地方自治体などを含む)が国民の一部を差別するのがひとつ。
  2. 私人(つまり一般人)が、別の私人を差別するのがひとつ。これはさらに2つに分かれて、
    1. 行為が相手に損害を与える場合。上の日本人のケースがそうです。
    2. 行為が相手に損害を与えない場合。上の火星人のケースがそう。火星人は、確かに利益は得られないけれど、損害が与えられたわけではない。商取引は自由ですからね。でも差別は差別です。

パターン1を国がやっちゃいかんというのは憲法に定められています。憲法14条、法の下の平等です。

パターン2のうち、2-1は権利侵害になることがあります。それは「行為」の部分が権利侵害である場合。殴られる日本人のケースですね。でも2-2は権利侵害にならない。損害が与えられてないし、利益が与えられないというのは権利侵害にならないから。

「利益が与えられない」が権利侵害にならない、というのはちょっとピンときにくいけど、こういうこと。差別者Aが、被差別者Bに利益を与えなかったとする。もしこれがBの権利を侵害してるなら、Aには「利益を与える義務」があったということになる。で、誰かが誰かに利益を与えなければいけないというのは(契約などしてない限り)そんなことはないから、権利侵害になってないということです。

というわけで、私人の間の差別が人権侵害になるとしたら、「行為」の部分が権利侵害の場合だけなんですね。全ての差別が人権侵害なわけではない。

そうするとちょっと疑問が出てきます。パターン2-2において「行為」の部分は権利侵害でないけど、全体としてその差別が人権侵害になることはないか? つまり「火星人は貪欲だから商取引をしない」は人権侵害で、「bogenbauer は貪欲だから商取引をしない」は人権侵害にならないのでは?ということ。

これ、一見よさそうです。bogenbauer が貪欲だと分かってるのなら、取引を断ったって何の悪いこともない。でも、全ての火星人が貪欲かどうか分からないから、火星人は貪欲だという先入観によって特定の火星人と商取引をしないのは人権侵害だ、ということです。

しかしこの差別を禁止すると、恐ろしいことが起きます。同じ「商取引をしない」ということについて、「火星人は貪欲だ」を理由にするとダメで、「bogenbauer は貪欲だ」なら許す、ということは、行為ではなくて特定の思想を禁止することになりますよね。「火星人は貪欲だ」と思っちゃいかん、と。これじゃ人権擁護どころかひどい人権侵害です(笑)

ということは、問題はひどく簡単で、「行為」の部分が権利侵害かどうかを判断すればよいことになる。「差別意識」の部分は権利侵害に関係ないってこと。

私の見方では、「行為」の部分の権利侵害なんて今までの法律で十分防げると思うんですけどね。人権擁護法案では「不当な差別」という言葉を使って、差別のうちの一部を罰しようとしてます。なにが不当かは人権委員が恣意的に決められるから問題になってる。今までの法律で十分なら人権委員なんていらないし、それを越えたら思想の処罰になると思いますね。

ともかく「差別=人権侵害」ではないんだ、ということは理解しておきたいです。