テロと憲法九条

「あの国」のやるべきことは - 内田樹の研究室

日本が今のところユダヤイスラム間のテロの脅威から逃れられている理由は、日本にテロを仕掛けることがどちらのテロリスト(もしいれば)にとっても大きな利益にならないからだろう。

テロリストに対して戦争を仕掛けることができないのなら、日本の軍備はテロリストにとって直接の脅威にはならない。したがって交戦権を放棄している憲法九条のおかげで日本がテロから逃れているという論理づけは難しい。実際、オウム地下鉄サリン事件というテロは起きた。

ではテロ一般ではなく、イラク派兵にみる形態、つまり対テロの名目で自衛隊が海外に派遣されるというパターンに限って考えてみる。もし九条が変わって、イラク派兵で自衛隊が軍事行動をして、それがテロリストに脅威になったとしても、テロリストが「日本が憲法を変えて自衛隊がある種の軍事活動を許された」こと自体に脅威を感じ、それを理由に日本にテロを仕掛けることは考えにくい。なぜかというと、軍備を持っている国はいくらでもあるが、軍備を持っている国が全てテロの対象となっているわけではないからだ。そうではなく、日本がアメリカに同調して自衛隊を動かしたことに関してテロを起こすことはあるだろう。つまりこれは、日本がアメリカのイデオロギーに同調し、テロリストと反対の側に立ったということだ。テロリストの視点はむしろこっちではないか?

テロリストが、「日本は事実上軍備を持っているが交戦権は憲法で放棄している、だから自分の国に自衛隊アメリカと一緒にやってきても軍事行動はしないだろう、したがって自衛隊は現在のところ我々の脅威ではないので、日本にテロを仕掛ける必要はない」などと考えるだろうか?

こう考えても、九条つまり通常の軍備を持たないこと自体がテロの抑止力になっているとは考えにくい。

そもそもそれ以前に、世の中で一般的になっているらしい「対テロ」や「対テロリスト」という見方がそもそも虚構だと私は思っている。ユダヤイスラム問題とオウムの違いだけを見ても分かるように、テロリストのイデオロギーはひとつではない。一団となってもいない。共通するのは、暴力で脅してイデオロギーを通すということだけだ。

この定義によればアメリカもテロリストということになるが、アメリカは「対テロ」という概念を作り出して、自分と反対側をテロリストと呼んだ。この虚構に基づくゲームに日本が参加してしまったのはつくづく残念だった。私は、イラク特措法テロ対策特措法も歪んだ現実認識に基づく法律だと思っている。だからテロ対策の派兵のための憲法九条改正などという議論は是非以前の問題で、全くついて行けない。

しかし、一度ゲームに参加してしまったら、有利に事を運ばなければならない。インド洋での給油は対テロと言うよりすでに日本の外交カードになっていると思う。このカードを、国益プラス本当の国際平和のために生かせるかどうか、というのが現在の段階だろう。ただ単にプラグを引っこ抜いたら、日本の発言力を下げるだけになってしまう。

日本について書けば、日本がテロから免れている大きな理由は、「敵をできるだけ作らない」という日本人の精神性に根ざしているのではないかと私は思う。アメリカは簡単に他国やあるグループを敵に認定する。敵に認定されたら、された方はアメリカに対して何をやってもよい。なにせ敵なのだから。それに対して日本は、個人のレベルから外交のレベルまで、誰かを完全に「敵」と見なすことはほとんどない*1。基本的には人を信じ、思いやり、助け合う。だから相手は感情的にも、また損得勘定でも、日本を完全に敵とするのが難しくなる。日本人同士の間でも同じことが言える。日本のいろいろな住みやすさや安全性はここから生じていると思う。

そしてこの精神性は戦後に作られたものではない。いま日本が奇跡の国なら、同じ奇跡は例えば上杉鷹山米沢藩にも見て取れないか。

憲法九条の改正の是非は、テロとの関連ではなく、あくまで他国との関係における国防の文脈で考えるべきことだと思う。

むしろ私が日本について危惧するのは、ネット上に中国や韓国、北朝鮮を敵視する発言が多く見受けられることだ。敵視するのは簡単だし、白黒つければ頭は楽だ。でもそれは思考停止を招くし、容易に煽動に乗せられるようになる。人をグループとしてではなく個々として見る努力をすること。安易な二分法に飛びつかないこと。これは頭には負担だけど、世の中をより正しく認識するには必要な知恵だと思う。

もひとつ、残念ながら現在のところ、「テロのない平和な世界」を望まない人々の方が、世界において力を持っていると私は考えている。アメリカもそうだ。「対テロリズム」は平和のためではなく、戦争のための新しい口実にすぎない。ま、こう考えている人は多いだろうけれど。

*1:この例外が小泉内閣がやったアメリカの対テロ支援。