まともな社会人

学生に対して、たまに「まともな社会人になるには」とか「まともな大人になる」とか言うことがある。この「まともな」が主観的なことはさておき、「まともな社会人」と「まともな大人」がもしかしたら違うかも、とふと思った。

私は私なりの「まともな大人」観を持っていて、もちろん自分自身がそうなろうと努力している。自分のいる学校は、大学改革とやらで最近とみに組織化というか会社化が進んでいる。その中で私が「まともな大人」的言動をとること―具体的には、正しいことは正しいと言い、筋の通らないことや合理性のないことは批判することなど―が、どうも嫌がられている節がある。

他方、学生のほとんどは卒業すると会社員になる。私の現状から予測するに、彼らが、私の考える「まともな大人」になることは、もしかしたら多くの会社では歓迎されないかもしれない。つまり、私の「まともな大人」は、世の中の「まともな社会人」と一致してないかもしれないということだ。

苅谷剛彦の本に「日本社会の同調主義文化」という言葉があった。それを「隠れたカリキュラム」とする日本の教育がある。その結果が「まともな社会人」だとしたら、やはり私はあまり「まともな社会人」(どちらかと言うと「まともな会社人」と言い替えたいが)を育ててはいないということになるか*1

それでもやはり、教師としては、自分の信じる「まともな大人」に学生を育てるべきなんだろう。とりあえずは。

*1:もちろん私もそういうカリキュラムの産物だから、そこから自由であろうはずはないが。